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理系の連帯

日本の将来にとって、理系の連帯の重要性は極めて大きい。

日本が先進国家として生き残れるか否かは、理系の連帯が成功するか否かにかかっているだろう。

理系の連帯に失敗すれば、理系離れはとまらず、人材面から日本の理系企業は崩壊してしまう。

理系企業は、理系を安く使ってその場をしのごうとするが、それは理系の共倒れを生む。そして、理系も理系企業も、長期的にはだめになってしまう。

理系企業と理系の連帯により、長期的な視野で、国家百年の計を立てる必要があるだろう。

理系企業の地位向上

製造業の地位向上よりも、広い概念として、理系企業の地位向上のページを加えました。

理系企業は、理工系の主な就職先です。日本の理系企業の地位向上、理工系の地位向上、及び日本の地位向上は、それぞれ関連した問題です。

製造業の地位向上

製造業の地位向上を加えました。

製造業は、日本の生命線とも言える重要な産業です。しかし、製造業は、厳しい国際競争を強いられています。そのため、一部の非製造業と比べると、従業員の年収が低くなる傾向があります。

製造業離れが起こっており、日本の製造業の崩壊の兆しが、人材面に現れてきているのです。

博士とプライド − ポスドクの死者、行方不明者の本当の原因

博士の就職は、学卒や修士より難しいことがある。ポスドク問題である。

使う側も人間なので、博士のプライドに使いにくさを感じるのであろう。使う側は、プライドが低く、何でも言うことを聞き、雑事もしてくれる人間を好む傾向がある。博士の能力が高いかどうかは、二の次と思っている人もいるであろう。

一方、博士は、プライドが高く、能力が高いことが重要と思っている。専門教育を受けたのだから当然であろう。

博士になることにはリスクが大きすぎる。ポスドク1万人計画と博士の就職難に示されるように、博士になるには、約3000万円(あるいはそれ以上)の先行投資が必要だからである。

約3000万円のほかに、プライドが高くなるという代償が加わる。これは本当は代償であってはならないのだが、現実には、日本社会ではプライドが高いと辛い思いをすることが多い。これは、博士になった以上は、一生の苦しみとしてついてまわるものであり、お金には換算できないほど大きなマイナスといってよいだろう。

すなわち、博士になるには、約3000万円の先行投資と、高いプライドという、はかり知れないマイナスを背負うことになる。

博士が、プライドに見合った就職先を確保できる社会にしない限り、博士の苦しみは続くであろう。博士が増えたわりには、高度な研究所やアカデミックポストが少なすぎるのが、根本的な問題である。一般の会社に入れば、博士の専門性を、あまり評価せず、プライドが高い博士を嫌う人間が数多く存在し、博士を苦しめることになる可能性が高い。

会社の上司は、博士のプライドを捨てさせ、雑事に携わるよう、色々な圧力をかけてくるだろう。プライドを捨てることが、優秀な兵隊さんになる条件だからだ。軍隊教育である。使用者は、兵隊さんがほしいことが多く、指揮官、専門官がほしいことは少ない。多くの兵隊さんから搾取した方がうまみがあるからである。

このような社会の現実は、博士課程に入る前の学生によく教え、書面による同意書(インフォームドコンセント)を取るべきである。それなしで博士に進ませることは、その後の博士の苦しみを考えれば、許すべきではないだろう。

博士が、研究による自己実現もできないまま、プライドを捨ててひたすら兵隊として喜んで働くことができるはずがない。しかし、使用者は、執拗にそれを迫ってくるだろう。そして、あの人は協調性がないという評価がなされる。このような社会に、プライドが高くなった博士をさらせば、ポスドクの行方不明者、死者が増えるのは当然であろう。

周りの人間からは、博士のプライドは、博士の側の「問題」であるとされる。博士は問題児扱いになるのである。周りは、博士のプライドを尊重するよりは、博士のプライドを早く破壊して、優秀な兵隊さんになる方が、博士のためだという態度をとる。これは、多くは善意から来るものだが、博士にとっては、恐ろしい圧力である。善意から来る圧力ほど、恐ろしいものはない。

プライドを捨てた方が楽になって幸せになれるというのは一般論としては正しい。しかし、博士には正しくないだろう。もしそうなら、最初から博士になる必要はないはずだ。プライドが少ない方がよいというのなら、博士という学位もなくした方がよい。余計なプライドは不要という一般論が博士にもあてはまるのなら、最初から博士自体を廃止すべきなのである。

しかし、博士自体は増加させるというのは、国の政策なのだ。しかし、日本社会では、多くの人が博士のプライドを破壊しようとする。国の政策と、人々の政策は正反対であり、博士はそれに引き裂かれることになるのである。人間の自己実現というものを無視した、日本社会の圧力である。

これは、博士に自害を求めるに等しい。苦しんで自殺したり、投げやりになってしまう博士も多いだろう。ポスドクの死者、行方不明者が多いのは、日本社会の特性が関係しているのである。

本当に残酷なことは、最初からプライドが低い人にプライドを捨てさせることではない。博士という専門教育でプライドを増加させた後に、それを捨てさせる、そのプライドの落差により引き裂かれるのが残酷なのである。ポスドクの死者、行方不明者の本当の原因はプライドにあるだろう。

ポスドク問題では、博士のプライドの問題がもっと議論なされなければならないだろう。苦しみは金銭的なものだけではないのである。

奨学金は理工系の振興の鍵

理工系の振興には、奨学金を充実することが鍵となる。

理工系に進学するのはお金がかかることが文理格差の原因となっている。文系の場合には学部卒ですぐに給料が得られるが、理工系の場合、専門的なことをやろうとすると修士までお金がかかることも多い。特に理工系にとって、奨学金が大事であろう。

奨学金も国から民間に回されたようだが、営利事業ではないので、民間では限界だろう。こういう分野こそ、国家予算を惜しみなくつぎ込んでいく必要がある。奨学金は、理工系の振興の鍵なのである。

技官の地位向上

技官と事務官の待遇の格差が大きいようだ。事務次官や局長クラスには、技官よりも事務官の方が圧倒的に多い。しかし、技官と事務官のバランスが重要だろう。

理工系の地位向上の観点からは、技官の地位向上が重要だ。技官は理系出身であることが多い。技官の昇進、給与などは、事務官とほぼ同様であることが、理系に進む人を増やす点で望まれるであろう。

技官の待遇、処遇、給料、出世、昇進などの問題については、多くが語られていない。技術者や研究者の処遇に比べると多くの人が関心を抱きにくいが、極めて重要な問題である。技官と事務官の給与の差があることが、すなわち文理格差につながるからである。そして、理科系に進学、就職しようとする子供達にとって、技官の地位が事務官の地位よりも低いということは、ショックを受けることであろう。

技官は日本の科学技術を影で支える縁の下の力持ちである。なかなか国民の関心が向きにくいが、技官の地位向上、待遇改善は日本の未来にとって大事である。技官を大切にし、技官になることに多くの若者があこがれるような社会が望まれる。

技官には、色々な類型があるであろうが、科学技術を支えたり、技術者を支える役割もあるだろう。技官単独では数が少なく、発言力が弱いが、技術者との連帯により、技官の地位を高める必要があるだろう。

技官の法的な地位の確立も重要である。技官と事務官の区別や差別をなくすことも重要だろう。技術を扱う事務官や、技術関係以外の事務を扱う技官が必要であり、あまり両者の間に固い区別を設けるのはマイナスであろう。

技術者、研究者の人も、技官にもっと目を向け、技官を全力で支援することが重要だろう。技官だけでは、力が弱く、主張が通りにくい。技官の地位を向上させ、技官の待遇を改善し、技官が事務次官や局長クラスにもっと上がることができるようにすべきであろう。

また、特に優秀な技官には、特に高い待遇を与えるのも良いだろう。アインシュタインも技官であった時期がある。技官は、科学技術の歴史上の偉人が、一時期滞在する可能性のあるポストである。技官と科学者、技術者の交流を深めるべきであろう。

技官にも、理系技官、工学系技官、理科系技官、薬学系技官、農学系技官、医系技官、文系技官など、色々な技官が存在する。また、勤務先についても、省庁、大学、研究所など色々な技官が存在する。このような技官の多様性から、技官の地位の向上や待遇の改善について、なかなかまとまりにくい面はあるだろう。しかし、技官が日本の技術立国のために、大きく連帯をし、強力に地位を向上させることが、日本の未来に重要である。理系に進学、就職する際の選択肢の幅という点でも、技官の地位が高いことは重要であろう。

課長補佐以上のポストといわず、トップのポストも、技官と事務官が均等になるようにするのが好ましい。技術的な事項が多くなっており、日本の舵取りにも技官の役割は大きい。

公務員の制度改革により、技官の地位を高めることが重要であろう。この場合、技術者、研究者が強く技官の地位を高めることを願い、運動することが重要となる。国家公務員、地方公務員を問わず、技官が技術者と共同して、日本の技術立国を考えていくことが技官の職務となるだろう。

技術立国の立案には、技官、技術者、研究者等の技術系の人々が知恵を出し合うことが大事である。

また、技官に夢のあるポストが必要であろう。技官になれば、最高の仕事をして日本の産業立国に貢献できるというポストである。技官の一般的な昇級昇格の問題だけではなく、技官の最高クラスが国家を動かしていくという特別な扱いが技官の地位向上に有用だろう。技官の中で最も優秀な人が、スター技官となるような制度である。

科学や技術の世界ではノーベル賞がある。技官の地位向上には、最高の才能を持った技官が、とてつもなく高く処遇されることが重要であろう。俸給表にしばられては硬直化する。文系、文科系の基準では、官職や身分や出世が大事であり、そういうものも、技官にとっても大事であろう。しかし、技官ならではの、とてつもなく高い処遇が望まれるであろう。技官に職務発明を認めるとか、技官だけが受賞できる権威のある賞を作るなどが考えられる。技官を極めることにより、最高のレベルに到達するのである。技官というと科学者よりも一見地味にも思う人もいるかもしれないが、ホームランバッターだけが必要なわけではない。ゴールデングラブ賞も必要である。極めれば神業の領域に達するのである。

技官の研修、教育も大切であろう。技官がその能力を強力に伸ばすことができるようにする必要がある。人事異動も、技官の経験を増やすことを念頭に置くべきであろう。官房長と技監も、技官や事務官にかかわらずなれるようにすべきであろう。

国家公務員試験、地方公務員試験も変える必要があるだろう。技官と事務官を一括で採用するようにすべきであろう。国家公務員?種 国家公務員?種 国家公務員?種などという区分もなくし、優秀な者を選ぶようにするのがよいだろう。そのために、一回は民間に出して、技術者、研究者と交わるようにし、技術者、研究者のレビューを受けるようにするのがよいだろう。また、国家公務員1種 国家公務員2種 国家公務員3種などの採用試験の合格者でなくとも、民間から卓越した人を技官として採用し、そのような技官がやがて事務次官になれるようにすべきであろう。

技官と事務官が、ほぼ同じくらいのポストを占めるのがよいであろう。それとともに、技官の中で専門職として、技術の現場により深く携わる者を技術専門職技官として処遇すべきであろう。

技官の処遇問題については、技術者、研究者など広範な理系、理科系、理工系との連帯が必要である。技官とその他の理工系人材が力をあわせることで、日本の科学技術と産業の未来が切り開かれるのである。

ポスドク1万人計画

ポスドク1万人計画は、日本の理工系の問題を典型的に表している事例である。

ポスドクの数を増やせば科学立国に資するという計画だった。一見すると、人数は増える方が科学立国のために良いように思える。しかし、これにより、博士の地位は低下してしまった。博士なのに職に就けないというひどい状況が出現してしまった。ポスドクの数を増やせば、科学立国ができるという単純な考え方は正しくないのではないか。ポスドクの地位が低下すれば、優秀な人材が博士にならなくなる。博士の地位が低下すれば、長期的には、科学立国に反することになる。ポスドク1万人計画が博士の地位を低下させるとすれば、長期的には、科学立国に反することになると思うのだが、そのような意見は恐らく通らないだろう。

ポスドク1万人計画のように、どんどん人数を増やすことは、今後も行なわれるであろう。これは理工系の地位を劇的に引き下げる。

博士に行くことは大きなリスクになってしまう。無職になる危険をおかすのは誰でも嫌なものだ。だから、本当に優秀な人が博士に行くことを躊躇することになってしまう。しかし、それでも人数を増やした方が研究論文数等は増えるだろうし、博士の価値は下がっても、数でカバーすればよいと考える人は多数派であり続けるだろう。だから、今後も、博士や理工系の地位は下がっていくことをとめることはできそうにない。本ブログは、このような流れを食い止めたいと思うが、見てくれる人もあまりいないようだ。

ポスドク増員というと科学立国のためになりそうで聞こえが良すぎる。そこで、むしろ博士の地位を低下させる計画と名づけた方がよいだろう。博士の地位を低下させればさせるほど科学立国が進むという考え方を正面に出していく必要がある。

要するに、ポスドクの地位を低下させ、質よりも量で勝負することが、科学立国に資するという考えである。たとえば、10万人のポスドクを作り、さらには100万人のポスドクを作ればよい。ポスドクという言葉が、ニートを意味するようになるところまで、ポスドクを増やし続ける。

そうすれば、本当にそれが科学立国に資するかどうかが明らかになるだろう。博士の数を増やせば増やすほど、科学立国を実現することに近づくと考えている人がたくさんいる。いっそのこと、1000万人を博士にしてもよいだろう。

そうすれば科学立国ができるのだろうか。できると考えている人はたくさんいると思う。1万人で研究するより、1000万人で研究する方が、効果が上がるように一見見える。研究論文数も増えるだろう。だから人数は増やせば増やすほど科学立国に近づくと考える人も多いのだ。

このような考え方が支配的であれば、これからも博士の地位、理工系の地位はとめどなく引き下がっていくだろう。もしこのような考え方が続くのであれば、優秀な人材が理工系に進むのは危険すぎる賭けとなる。

このまま行くと、人数を増やせば科学立国ができるという論調は今後も強くなることはあっても弱くなることはないだろう。1万人のポスドクより、その1万人と残り99万人のポスドクの方が、研究成果が出そうだという考え方を変えるのは難しい。増やせば増やすほど科学立国に近づくという考え方を論破するのは難しい。だから、人数の増員を論破できない。論文数も増えるし、研究成果も増える。人数は増やせば増やすほど表面的には研究成果が増えていくのだ。だから科学立国を実現しようと考えれば人数を増やすという話が出てくる。これからも、人数を増やせという大合唱は続くだろう。科学立国の重要性を人々が認識すれば認識するほど、人数を増やせという論調は強くなっていく。そして、それはとどまることなく、博士と理工系の地位を引き下げていく。

昔は、大臣と博士が並び称されていたことを知らない人も多くなったのではないだろうか。今は博士が大臣と同じ地位だという人はいなくなった。それでも、博士に進む人は絶えることはない。どんなに博士の地位が低くなっても、博士になる人はいなくならない。だから、博士の人数を増やすことはできる。しかし、本当に優秀な人は、博士にならなくなっていくだろう。それは、科学立国の終焉を意味するのではないだろうか。

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