理工系ブログ at 理工系.com

<< 奨学金は理工系の振興の鍵 | main | 製造業の地位向上 >>

博士とプライド − ポスドクの死者、行方不明者の本当の原因

博士の就職は、学卒や修士より難しいことがある。ポスドク問題である。

使う側も人間なので、博士のプライドに使いにくさを感じるのであろう。使う側は、プライドが低く、何でも言うことを聞き、雑事もしてくれる人間を好む傾向がある。博士の能力が高いかどうかは、二の次と思っている人もいるであろう。

一方、博士は、プライドが高く、能力が高いことが重要と思っている。専門教育を受けたのだから当然であろう。

博士になることにはリスクが大きすぎる。ポスドク1万人計画と博士の就職難に示されるように、博士になるには、約3000万円(あるいはそれ以上)の先行投資が必要だからである。

約3000万円のほかに、プライドが高くなるという代償が加わる。これは本当は代償であってはならないのだが、現実には、日本社会ではプライドが高いと辛い思いをすることが多い。これは、博士になった以上は、一生の苦しみとしてついてまわるものであり、お金には換算できないほど大きなマイナスといってよいだろう。

すなわち、博士になるには、約3000万円の先行投資と、高いプライドという、はかり知れないマイナスを背負うことになる。

博士が、プライドに見合った就職先を確保できる社会にしない限り、博士の苦しみは続くであろう。博士が増えたわりには、高度な研究所やアカデミックポストが少なすぎるのが、根本的な問題である。一般の会社に入れば、博士の専門性を、あまり評価せず、プライドが高い博士を嫌う人間が数多く存在し、博士を苦しめることになる可能性が高い。

会社の上司は、博士のプライドを捨てさせ、雑事に携わるよう、色々な圧力をかけてくるだろう。プライドを捨てることが、優秀な兵隊さんになる条件だからだ。軍隊教育である。使用者は、兵隊さんがほしいことが多く、指揮官、専門官がほしいことは少ない。多くの兵隊さんから搾取した方がうまみがあるからである。

このような社会の現実は、博士課程に入る前の学生によく教え、書面による同意書(インフォームドコンセント)を取るべきである。それなしで博士に進ませることは、その後の博士の苦しみを考えれば、許すべきではないだろう。

博士が、研究による自己実現もできないまま、プライドを捨ててひたすら兵隊として喜んで働くことができるはずがない。しかし、使用者は、執拗にそれを迫ってくるだろう。そして、あの人は協調性がないという評価がなされる。このような社会に、プライドが高くなった博士をさらせば、ポスドクの行方不明者、死者が増えるのは当然であろう。

周りの人間からは、博士のプライドは、博士の側の「問題」であるとされる。博士は問題児扱いになるのである。周りは、博士のプライドを尊重するよりは、博士のプライドを早く破壊して、優秀な兵隊さんになる方が、博士のためだという態度をとる。これは、多くは善意から来るものだが、博士にとっては、恐ろしい圧力である。善意から来る圧力ほど、恐ろしいものはない。

プライドを捨てた方が楽になって幸せになれるというのは一般論としては正しい。しかし、博士には正しくないだろう。もしそうなら、最初から博士になる必要はないはずだ。プライドが少ない方がよいというのなら、博士という学位もなくした方がよい。余計なプライドは不要という一般論が博士にもあてはまるのなら、最初から博士自体を廃止すべきなのである。

しかし、博士自体は増加させるというのは、国の政策なのだ。しかし、日本社会では、多くの人が博士のプライドを破壊しようとする。国の政策と、人々の政策は正反対であり、博士はそれに引き裂かれることになるのである。人間の自己実現というものを無視した、日本社会の圧力である。

これは、博士に自害を求めるに等しい。苦しんで自殺したり、投げやりになってしまう博士も多いだろう。ポスドクの死者、行方不明者が多いのは、日本社会の特性が関係しているのである。

本当に残酷なことは、最初からプライドが低い人にプライドを捨てさせることではない。博士という専門教育でプライドを増加させた後に、それを捨てさせる、そのプライドの落差により引き裂かれるのが残酷なのである。ポスドクの死者、行方不明者の本当の原因はプライドにあるだろう。

ポスドク問題では、博士のプライドの問題がもっと議論なされなければならないだろう。苦しみは金銭的なものだけではないのである。